僕は青春を謳歌している。まあ、そりゃあ、今、この僕が、日本で一番青春を謳歌している高校生なんですよみなさんと、声を荒げるほどではないけれど。日本で一番の青春を送る高校生が百のところにいるとすれば、僕はきっと六十二くらいのところにいるのではないかと思う。
 そんな僕の青春の舞台である美術部の面子のほとんどは、いわゆる、幽霊部員であった。実質の活動人数は、右の手の指を順番に四回折れば足りるほどだ。
 その中でも、僕と、一年上の先輩は、日頃からよく部活に顔を出している。よって、放課後の美術室で、俺と先輩が二人きりになることは、もう珍しくなかった。


 *
「ねえ、三年の原田さんって、水瀬くんの先輩なんでしょ?」
 隣の席に集まっていた女子が話しかけてきたのは、ショートホームルームのはじまる少し前だった。
「うん、そうだけど」
「原田さん、クラスでうまくいってないって聞くんだよね。なんか、すごい我儘で、うざいって」
「そうそう、なんか先輩たちが話しててさ。いわゆる協調性がない奴だ、って。意地でも自分の意見を通そうとしたり、クラス単位の活動に参加しなかったり」
「えー、なんでそんなことするんだろう。嫌な人」
 僕が口をはさむ間もなく、ホームルーム担任が教室に入ってきた。群がっていた女子はいっきにはけて、そこに先輩の話の面影は、もうなかった。


 *
 美術室のドアを引くと、件の原田先輩が窓際の席について、画用紙に色を置いていた。
「何描いてるんですか、先輩」
 先輩は僕を一瞥して、筆洗で絵筆を洗う。まだ透いていた水に、薄い青がヴェールのように広がった。
「詳しいことは、決めてないんだけど。学校祭のポスターを描いて、って、頼まれたから」
 ああ、もうそんな時期か。ひとりごとのように呟いて、先輩の座る席からひとつぶん空けて、隣に腰掛けた。水をたっぷり含んだ絵筆が、画用紙を撫でる。そこに生まれる世界が、僕は好きだ。
「じゃあ、今年のポスター、先輩が描くんですか」
「まあ、そういうことになるのかも、しれない」
 横に流した前髪を、耳にかけるような仕草。きっと、彼女は今、ほんのすこしだけ照れている。


 先輩の髪はチョコレートみたいに茶色くて、目も同じ色をしていた。肌も透けるように白いから、もともと、少し色素が薄いのかもしれない。化粧とかそんなものとは縁のなさそうな顔をしているのに、睫毛はふわりと長くて、綺麗だ。
 会話もいつの間にか消えて、ただぼんやりと、野球部の掛け声だけを聞きながら、時計の針だけが回っていた。


「ね、ね。絵、描かないの?」
「え? ああ、気が向いたら描きます」
「今度、前に描いてくれたみたいな絵、描いてよ。あの、色鉛筆の、あれ。色がすごく、きれいだったやつ」
 へらへらと屈託なく笑うその顔が、妙にまぶしい。
「じゃあ、今度、先輩の卒業祝いに描きます。それよりも、今は早く、そのポスター、完成させたほうがいいんじゃないですか。クラスの人だって、楽しみにしてますよ」
「やだなあ、わたしがクラスでうまくいってないこと知ってるくせに」
 ほんの一瞬、落ちる沈黙。先輩は相変わらず笑っているのに、どうにも僕には笑えない冗談に聞こえた。
「なんかね、どうしてもうまくいかないのよね。あんたは頑固だ、って、母にも言われるんだけどね。きっと、自分を曲げるのが下手なのね」


 ――一度だけ、泣いている彼女を見たことがあった。美術室の隅っこで、背もたれのない丸椅子に体育座りをして、カーディガンの袖で涙をぬぐい、細い肩をちいさく震わせているところを。
 きっと何度もそういうふうに、泣いてきたんだと思った。




「僕は」
 先輩が不思議そうに僕を見る。野球部の声が、少し遠い。
「僕は先輩が好きですよ」
 そう言って、笑った。先輩がよくするみたいに、へらへらと、乾いた笑いを。すると先輩もつられて笑って、最後にはふたりして笑った。
「慰めてくれて、ありがとう」


 彼女は、生きてゆくのが下手なのだ。誰よりも、僕よりも。
 だから僕は、その細く震える肩を、見ていることしか、できない。



 

勇敢な君になしいお知らせ(創作企画「Blacken Vermins」提出作品)

inserted by FC2 system